46章 砂漠の黒蛇と風神
「んなっ!?」
前方に現れたのは月にも触れんばかりなほどに長い黒蛇。メートルという単位がひどく小さく思える。
何、あれ……あれはもう蛇っていうサイズじゃないのに。こんなのいくらなんでもアリ!?
黒蛇は月に向かって何か祈るみたいに鎌首をもたげた。人は頭を垂れて目を伏せてただ一心に祈るけど。
蛇に祈りを捧げる両手も腕もなくて。炎にくゆる塵が一繋がりであるかのようにゆらゆらと揺れるだけ。
ただそれだけのことさえ、異様に大きい爬虫類というだけで睨まれたかのような錯覚に身体中から粟立つ。
冷めたい感触が重力に逆らっているように思えるほど落ちることを躊躇ってる。
ただ真昼の熱気からようやく逃げ出してきた風が、私の真横から叩いてくる。
砂嵐も黒蛇の足下で燻っているだけで、誰の姿をかき消すことはできない。
逃れようのない姿は、固まっていても動きが止まない中でも一向に距離が開くことはないように見える。
そこまで私が行き着いた時に、正面から強く吹きすさぶ大風にぶちあたった。
『ボタッ』
ガーディアの体の横に何かが落ちた。水……? 雨にしては一粒が大きすぎる。
目に見える水溜まりは、その大きさでもすぐ水にしみこんで痕跡を失う。
だけど、そのあとを追ってすぐまた驟雨が砂を穿って小さな岩石を削っていく。
ずっと風は止まず、真横と正面から風の叩きにあう。
顔の横をうねるよう水の鉄砲玉が通り過ぎて私は首をひっこめた。そうしたら、白い毛並みに黒蛇は消えた。
『ボタッ、ボタッ。ボタボタボタ』
何度も落ちてくる大粒の水は、もしかして雨じゃなくて涙、なの? 夜に月の逆光で黒蛇の様子はうかがいしれない。
黒蛇のまわりから、あの大風はこっちへ向かってきてる。伏せた目は、開けばきっと片目に射すくめられる。
目をどうしてか閉じてるから、徐々に落ち着きを取り戻してこれてくる。やっぱり、雨にしては不自然だから。
純粋に、どうしてだろう? としか思えなかった。
口を開いて何か言おうとしても五十音の最初の母音しかでてこない。
でもあれは雨じゃなくて涙なら。
なんで泣いてなんか……それに、あれってどうみても蛇。
理由がわからなかった。思い浮かぶものは何もなくて。静寂さを守る何かがあった。
ガーディアが、宙を蹴って砂漠の上を駆けていく。それでも距離は黒蛇の体からすれば気まぐれの尻尾で追いつく程。
黒蛇が低く、うめいた。喉の震えは喉内が広いほどよく反響して波長は大きいものへと変化する。
ただの動物の囁きは広大さによってまるで人のうめきのような声と化して砂塵さえも揺るがした。
砂漠の中で、ただ黒蛇はなく。それは、もう紛れもなく悲しんでいる姿だった。そうとしか思えなかった。
意思がない蛇が、歯牙にかけられるはずもないの月にあんなこと、しないよ。
それは砂漠の静寂の中で紛れて混ざることがなく、確実に動かぬ黒蛇から遠くへと離れていく私の耳にもよく響いた。
だけど不自然だからと大きな静寂を破るものじゃなくて。
静寂と静寂をくっつけるようにも感じたのは、どうしてだろう。
誰が、きめたんだろう。
泣けるのは人だけだと。
この世界には人以外に泣く動物が、ここにいた。
本当はこの世界じゃなくても泣く存在は多くいて。
たくさん止めどなく流れ出てるのかな。
目隠しをしてたら当然わかるものがあっても、掠めることがなかったら気づけないんだよね。
疑問として見ると本当は単純で簡単なものさえ複雑に見えて同じ場所を駆けめぐる。
私は白い毛並みから首を伸ばした。
『どうしてお前は泣くんだ?』
静寂の合間を縫い取るような二つ目の声は、すぐ近くからだった。
特に大きな声でもないのにはっきりと聞こえた高い声。
ばっと、目を向けるとみんなと数瞬視線が混じりあってすぐ外れた。
静寂を破った高い声のしたところに遅れて私はようやく標準があわせられた。
みんなの視線の中心には牢獄にいた時に見た顔。あれ? でもあの子いつあそこに。
その高い声に気づいたのか、黒蛇の鎌首が初めて私達のほうへと向いた。
『嘆いても何も始まらない。悔やむ理由はどこにある』
蛇が低く紐がほどける時のような音をさせた。私達にはそれは蛇のどんな言葉なのかわからないけど。
『ならば龍になるか?』
黒蛇はそれには何も言わず月の空を仰いだ。
もたげられていた鎌首を必死に伸ばして、伸ばせる限り。
まるで空に届きたいのだと、誇張しているようだった。
『そうか、じゃあ……我、風を司る神なりて龍を従えし者。黒蛇を我が下僕とし汝に風切りの力を与えん』
私は何の取引があったかわけもわからぬまま。
高い声で紡がれた言葉にぽかんとした。風切りの力を与える?
「……昇華の儀式だ。あの蛇、龍に化けるぞ」
ぽつりといままで黙々と突き進んでいたガーディアが一言そう漏らした。蛇が龍に?
そんなことってあるの。呟きは、驚きで形にならない。
枝が骨が、折れるような音が夜風ごしに伝わった。
黒蛇の胴体は変形していく。骨の音を鳴らしながらゆっくりと、月の下。
蛇から異形へと中に何かうごめくものの胎動を見せつけて。蛇腹が、鱗の下が、ひくついて。
頭の皮を破って角が姿を現して、蛇腹は腕と足を生み出した。
時折、急激に伸びた牙と鱗を覆うひげが月光に照らしだされてたなびくのを私は見る。
『――――――!』
空に向かって咆哮をしたその時が龍だった。翼がなくても龍は空を飛翔する。
黒蛇から黒龍へと変化したそれは疾風のように空へと舞い上がって闇に隠遁した。
その様を、唖然として見ているしかなかったうちにもガーディアは砂漠を駆けていた。
「すごかったねぇ……さっきの」
私はぽつりと、そう呟いた。皆ゆっくりと頷いた。あの光景は恐ろしいけど同時にある意味綺麗だった。
まさか本当に龍が、しかも蛇が龍になる瞬間をまのあたりにしたもん。
すごかった。ホントに龍って翼がなくても飛べるんだ、と私は変なとこで感動していた。
「それで、結局あんたは何なの?」
私の周りでほややーんとしていた空気が露散していった。
鈴実の言葉に皆の視線が自然と同じ場所に集まった。視線の先にはあの小さな男の子。
さっき、蛇だった龍に話し掛けていた不思議な子。さっきのって、この子が本当に何かしたの?
その問いかけには男の子は笑みを浮かべるだけで答えなかった。
「そいつは風神だろ。龍に転じさせれるのは神の中でも風神か雷神しかねぇ」
キュラと鈴実以外の皆と共に感嘆の声をあげた。……え、風神? 風の神様?
「んなにぃ――――!?」
気持ち良いくらいに靖の声が夜空に流れた。砂漠だから近所迷惑だとかいうのもないし。
「代弁ありがとう、靖」
そう言いつつちゃっかり耳を押さえていたレリが靖の背を軽く叩いた。
『あははー、バレちゃったぁ』
てへっ、とおどけるように男の子が──ガーディアがいうには風神──笑ってみせた。
あ。本当に子供っぽいけどさっきのはちょっと計算したような感じだ。
「なんでその風神とやらがここにいるわけ?」
皆の沈黙を鈴実が破った。うん、私もそれが知りたい。なんでか私のこと守ってくれてたし。
『それは事情というか、何というか』
男の子は言葉を濁しながら顔を俯かせた。そこへ美紀の適確なツッコミが決まった。
「つまり理由は言いたくない程、情けないものだと」
『別にそういうわけじゃないんだけどなぁ』
そう言われたら本当のことを言うしかなかった。揚げ足とったようなものだけど。
「美紀、御託は良いのよ。だから風神が何の用なの」
手厳しく鈴実は問い詰める。心なしかちょっといつもより厳しいよ?
『んー、だって清海ちゃんのこと好きだもん♪』
「はあっ?」
鈴実以外の全員、ガーディアも首を傾げた。私、今までこの子とあったことないよ?
ただ首を傾げなかった鈴実は眉をピクリと動かした……ように、みえた。
「封印符、発動」
すっと鈴実はお札を取り出してそう呟いた。なんだか目がギラリと今鈍く光ったよーな。
気のせいかなー? 鈴実さん。
『? あ、こ、こ、この光……!』
男の子はまた消えた。それでも鈴実は何かまたお呪いを続けた。
「あれ、そのお札って確か2重、3重に封印かけてる奴じゃなかったっけ」
威力三倍の。
「これ以上の問題ごとはいらないわ。そう、何もね」
その時何故か、静かに言い放つ鈴実の背後で轟音がしたような気がした。
あれ、なんでだろう。怒ってる? でもそれはちょっと乱暴じゃないかなあ。
いくらなんでもあれが理由で誰かを抑制するような人間じゃないんだけど、鈴実は。
鈴実の無言の怒気にずっとおされっぱなしで皆沈黙を続けた。でも砂漠の夜は冷えたから今の厚着の服装でも肌寒い。
時々身震いしながらそれでも皆、黙っていた。こんなに怖い鈴実滅多にないのにーっ。
な、何が悪かったんだろう。
靖、何かしゃべってよ。こんな時こそチャンスでしょ! 何のかは不問にするから。
私が視線を向けると靖は口パクで無理だろ、と私に答えた。そんなぁ。
宵の空の砂漠の中をガーディアは音もなく進んでる。足を時々砂地につきながら軽快に進んでいった。
もう、かれこれ黙り始めてから長いこと時間がたってるのに。鈴実もそろそろ怒りを鎮めてよー。
でも、何も喋らないとホントに眠い。
私はうとうとしながら、それでも起きていた。
なんで怒る人がいるからって強制で不眠耐久大会なんてことになっちゃってるんだろう。
それくらいに鈴実が怒ると毎度何か言うことが出来なくなる私たちも問題あるかもしれないけど。
いろいろ昔から靖と、それに美紀が加わって、レリが加わって問題に巻き込まれてた前科があるから。
それを知って助けてくれた鈴実はいつも無言で怒る。それでも一度だけ、鈴実が声をあげて怒りを露わにした時があった。
あの時のことは怖さのあまり、はっきり覚えてない。いや、覚えてるから思い出そうとしないんだよ。
間違えたらトラウマになりそうな程だったから、あれを最初で最後にするようにこんな時は口答えが出来ない。
「ぁ……」
『トン』
いきなりレリがキュラの肩にもたれかかった。それから小さい寝息が聞こえてきた。
私よりも先にレリが限界に達したみたい。私もレリもこういうのには耐久性ないもんね。
キュラはおろおろと、どうすれば良いのか悩んでたけど、遠慮げに肩に腕をまわした。
落ちたら拾うの大変だもんね。レリが寝入ったのを感じたのか鈴実はピリピリしていたのをやめた。
それにつられて、私もまぶたがすとんと落ちた。良かった、耐久戦が今ようやく終わったよー。
もう寝ようかなー、私も。疲れたよー、一度緊張がゆるんだらどっと疲れが戻ってきた。
それに砂漠の民族のいた所からはもうかなり遠くに来たはずだし。大丈夫だよね?
そう思ったら鈴実の怒気も全然気にならなくなったしm眠気が増した。
私はごそごそとガーディアの毛を掻き分けて鈴実の近くまで動いたところで寝た。
うん、もう好都合ってことにしといて。私は寝るから。
ばふっと音をたてて私はガーディアの中に埋もれた。ちょっと、息しづらいかも。
「清海?」
「おやすみぃ」
でもガーディアの体毛って毛深くてふかふかだし、布団にはちょうど良いんだよね。
いやな臭いもしないし、体温もそんなに高くない。私より体温低いんじゃないかな?
布団がわりにして私はすぐさま意識がとんでいった。良い夢が見れますよーに。
夢の中では平穏が欲しいな、せめて。
……まいったなぁ。僕は空いている片手で頭を掻くしかなかった。
いきなり肩にもたれかかられた時、顔にはでなかったけどビクッとした。
どうして、そうも簡単に自分のことを任せれるのかな。僕はどうしようもない奴なのに。
あの時、衝動まかせにしたことは取り返しのつかないことだ。
この手は血塗れてしまった。今まで無意識にもあがき続けたのに、耐え切れずに魔の本性が現れた。
結局僕は、魔物だった。生まれはどうであれ、抑えきれないのなら好んで殺すと同じ。
いままではラーキさんと姉さんが止めに入っていたから被害はでなかっただけ。
二人がいなくて、魔者であると気づかされて生命の危機に瀕せばすぐああなる。
僕の瞳は魔者であるあかしが刻みこまれてる。変化する瞳は魔者のみ。
あの時僕の心に生まれた破壊衝動はすさまじいものだった。今思うと自分でも身震いがおきる程の。
「ん……」
僕の腕の中でレリちゃんが少しみじろいだ。寝顔は安心しきっている顔、に思えた。
どうなのだろう、本当のところは。
今まで他人の本心なんて見え透いていたのに。
敵意をいだいていなかった光奈やラミさんでさえも。ラーキさんは、顔に出過ぎてたけど。
人の寝顔を見るのは初めてかもしれない。しかも安心してるような顔は。
教会では、僕だけ個室だった。教会に逃げ込む前は、姉さんといたけど毎日緊迫していたし。
まだ幼すぎた僕を姉さんは必ず先に寝かしつけて、先に起きていた。
たまに僕が先に起きた時も姉さんは眠りの中でも息をつく暇なんてなさそうだった。
僕より少し小さい肩が、ずれる。
起こさないように、落してしまわないように僕はレリちゃんの肩を抱えなおした。
姉さんのようには抱えてはあげられないけど。
ただ静かな夜が過ぎていく。皆あまり緊張した様子もなく、くつろいでいる。
この瞬間を失いたくないなと思った。皆が異世界の人間だからだと知っていても。
それでも初めて得た、安らかな時だから。骨折り損でも、皆となら楽しめそうだから。
少しの間だけ、僕がいることを許して欲しい。神に祈る資格など全く僕だけど、どうか。
魔性の月は見上げないで心の中で、皆に願う。もう過ちは起こさないから、いさせてね。
不眠の夜は、人の怯える顔を見るためではなく。
自分の秘められたものに我が身を庇って過ごすんじゃなく。
隣にいる人が朝までぐっすり寝ていられるように気を遣った。
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